LOGIN◇ 朝食は、今日もひとり分の食卓だった。 窓辺に近い小さな食堂。淡い光。白いクロス。小ぶりの花瓶に挿された野の花。温かな粥と、薄いパン、蜂蜜を落とした茶。すべてが静かで、すべてがやさしい。 リュゼリアはこの食堂を好きになり始めていた。 王都の食卓にはなかったものが、ここにはある。誰かの顔色より、自分の喉の具合を気にしていい時間。食べることが義務ではなく、ただ自分の身体へ少しずつ戻していく行為であってよい時間。誰かが先に席を立つ前に急いで終える必要もなければ、沈黙の重さを薄めるために無理に言葉を探す必要もない。 ひとり分の食卓は、最初は少し寂しかった。 だが今は、その寂しさよりも、この小ささのほうが好きだった。卓が長すぎず、皿が多すぎず、湯気の匂いがちゃんと鼻先へ届く距離にある。病んだ身体には、その近さがありがたい。 けれど、その朝、最初のひと匙を口へ運んだ瞬間に咳が来た。「っ、ごほ……、ごほ、」 粥の湯気が喉へ引っかかっただけなのか、それとも朝の咳の続きなのか、自分でもわからない。咄嗟にナプキンで口元を押さえ、身を折る。胸の奥で痛みが弾け、喉に熱が走る。目の前の卓が一瞬だけ揺れたように見えた。「奥様」 アイダがすぐ背後へ来る。だが手はすぐには触れない。彼女はもう知っているのだ。いま不用意に背へ触れると、かえって咳が乱れる時があることを。 リュゼリアは数度浅く息を吸い、咳が落ち着くのを待った。やがて痛みだけが残り、目の縁がじわりと熱くなる。泣きたいわけではない。ただ、咳の強さで生理的に涙が滲むのだ。「……大丈夫」 ようやくそう言うと、アイダがゆっくりと背を撫でた。「今日は少し、熱いものが先に喉へ当たりすぎたのかもしれません」「ええ……そうかも」 そう言いながら、自分でもわかっていた。 違う。 “熱いものが当たったから”だけではない。 咳は、もう少し深く根を張ってきている。 前よりも、きっかけを選ばなくなっている。 以前は冷たい風や、朝の乾きや、長く喋ったあとにだけ出た。今は、ただ一匙の湯気でも、少し笑っただけでも、ふと胸の奥がざらついて続いてしまうことがある。 それでも、朝食の匂いはまだ嫌いになっていなかった。 痛みが少し引いたあと、リュゼリアはまたスプーンを取る。温度を確かめるように少し息を吹きかけてから、
朝は、穏やかだった。 その穏やかさが、かえって残酷だとリュゼリアは思うようになっていた。 南の別邸へ移ってから、朝の始まりはいつもやわらかい。湖から吹く風はまだ少し冷たいが、王都の石の隙間を刺すような冷え方ではない。水を含んだ空気が窓辺へ静かに寄り、レースを揺らし、淡い光を部屋の隅へ薄く広げていく。遠くで水鳥が鳴き、館のどこかで木の床がかすかに軋む。そんな、ごく小さな音だけで朝はやってくる。 王都の屋敷では、朝はもっと重かった。 目を覚ますより先に、その日の予定が胸へ落ちてきた。客の名、帳簿の数字、夫の顔色、返書の順序、食卓の空気。息を吸うことさえ、何かの始まりと同時だった。だから今の、この何も急かさぬ朝は、本来なら救いのはずなのだ。 けれど、救いと同じだけ、確かなものもある。 咳だ。 目を覚ました瞬間は、たいてい一度だけ忘れられる。眠りの名残の中では、胸の奥に沈んだ重さもまだ形を持たない。喉の乾きだけを感じ、次に窓辺の白い光へ気づき、今日の風は昨日より少しやわらかいのかしら、などとぼんやり考える。そのわずかな数秒ののち、必ず胸の深いところで小さな棘が動く。 そして、思い出す。 消えていない。 今日も、ちゃんとそこにある。「っ……、ごほ、……ごほ」 最初の咳はいつも小さい。 だがそれが二つ、三つと続く頃には、胸の奥に紙を裂くような痛みが走り、喉の粘膜がひりつき、眠りの残り香は一瞬で吹き飛ぶ。呼吸の浅さも、背中の重さも、全部まとめて体へ戻ってくる。 リュゼリアは寝台の中で口元へ手を当て、咳が落ち着くのを待った。 窓の外では、朝の光がまだ柔らかい。庭の低木に乗った露が白く光り、遠くの花壇のあたりに、白と青の小さな色が見えた。自分で植えた花たちだ。ネモフィラの青は、遠くから見るとまだ頼りなく、風が吹けばすぐ揺れてしまいそうで、マーガレットの白は少しずつ花弁を広げている。 あの花は今日も咲いている。 自分も今日も息をしている。 その両方を確かめたあとで、咳の痛みがまだ胸の内側へ残っていることを知る。 穏やかな暮らしは手に入った。 だが、病はひとつも置いてこられなかった。「奥様」 長椅子で仮眠を取っていたアイダが目を覚まし、すぐに起き上がって寝台の傍へ来る。彼女の動きにはもう慌てがない。最初の頃は、リュゼリアが少し咳をしただけで
◇ 夜明け前、ようやくヴィルレオは客室へ戻った。 空はまだ暗い。だが、窓の端だけがわずかに白み始めている。夜は完全には終わっていないのに、朝の気配がどこかに紛れ込み始めている。その曖昧な時間が、今の自分に似ている気がした。 遅すぎる愛。 始まったばかりの後悔。 失いたくないという決意。 それらは全部、まだ朝とも夜とも言えぬ場所にある。 寝台へ腰を下ろし、両手を顔の前で組む。祈るような形になっていることに気づき、少しだけ苦く笑った。神に祈る柄ではない。けれど今は、誰に向ければよいのかわからぬまま、それでも何かへ縋りたい気持ちがあった。 後悔は始まったばかりだ。 それが彼女を救うわけではない。 むしろ、救えなかったことをこれから何度も突きつけてくるだけかもしれない。 それでも、今度こそ彼女を失いたくないとヴィルレオは思った。 命も。 心も。 期待も。 そのすべてを失いたくないという願いが、もうどれほど身勝手かもわかっている。 命は彼のものではない。 心も、期待も、リュゼリア自身のものだ。 彼が「失いたくない」と思ったからといって、それらを自分のそばへ縛りつけてよい理由にはならない。 むしろ、かつての彼は、彼女が差し出していた心を受け取らないまま、それでも妻として自分の隣へいることだけは当然だと思っていた。 その矛盾にすら気づかなかった。 今度こそ失いたくない。 そう願うなら、まず彼女を所有物のように扱うことをやめなければならないのだろう。 離縁を望む心も。 王都へ戻りたくないという思いも。 この別邸で穏やかに過ごしたいという願いも。 それらすべてが、自分にとってどれほど苦しい答えであっても、彼女自身のものとして受け止めなければならない。 愛しているから手放せない。 そう言うことは簡単だ。 だが、それが彼女の時間を奪うのなら、その愛はまた彼女を苦しめる。 遅すぎる愛を、さらに身勝手なものへ変えてはならない。 ヴィルレオは組んでいた手をゆっくり解いた。 指先には、扉の前で強く握った跡が残っている。白くなった節へ血が戻り、じんと鈍い痛みが広がった。 失いたくない。 それでも、彼女が望まぬ形で手元へ置くことはできない。 その二つの思いは、今のところ少しも折り合わない。 彼女を生かしたい。 そば
愛は遅すぎたのだ。 彼女がまだ、自分の視線一つで胸を温められた頃に、その愛は形を持たなかった。食卓で彼女がそっと差し出していた小さな優しさを、自分は一度もきちんと受け取らなかった。夜更けの灯りの向こうにあった寂しさへ、手を伸ばそうともしなかった。 その空白の時間の果てに、ようやく愛と認めても、そこはもう彼女の待っていた場所ではない。 ヴィルレオは掌を強く握り、指の骨がきしむのを感じた。 それでも失いたくない。 この矛盾が、今夜の彼を眠らせなかった。 遅いと知っている。 遅くて、無様で、相手にとってはもう手遅れかもしれないと知っている。 それでもなお、自分は彼女を手放したくないと、あまりに身勝手に思っている。 そのことがひどく醜くもあり、同時にどうしようもなく本物でもあった。 ◇ 夜半を過ぎた頃、ヴィルレオは結局また客室を出た。 足が向かう先はもう決まっている。西側の回廊。彼女の寝室へ続く廊下。人に見られれば滑稽だろう。だが今は、自分の足がそこへ向かうことを止められない。 扉の前で立ち止まる。 中は静かだ。 前夜のように名を呼ぶことはしなかった。呼べばまた、自分の想いの輪郭ばかりが鮮明になって、肝心の彼女には届かないままだと知っているからだ。 ただ立ち尽くし、扉一枚向こうにある気配へ耳を澄ます。 ごく微かな咳が一つ。 続いて、水を飲む気配。 アイダの小さな足音。 その全部が、遠くはないのに、自分にはまだ入れない場所の音だった。 守っていたつもりだった過去を思い返し、その全部が放置だったと悟った。 謝ろうとしても届かなかった。 ようやく愛だと認めた時には、彼女はもう期待を置いていなかった。 いまやっと「失いたくない」と思っても、その思いに彼女を引き戻す力はない。 それでも扉の前から離れられないのは、もう彼女のいない未来を想像するだけで息が詰まるからだろう。 ヴィルレオは壁へ軽く背を預け、目を閉じた。 後悔の始まり。 その言葉がふと胸へ浮かぶ。 今までのものは、後悔ですらなかったのかもしれない。ただの遅れた痛みだった。だが今夜から先は違う。愛していたと認めてしまった以上、この先の時間はすべて「もっと早くに」という後悔を伴う。 彼女が笑えば、もっと早くその笑顔を欲しがればよかったと思うだろう。 彼女が
そのささやかな会話の端に立ちながら、ヴィルレオはふと、今の自分は何をしようとしているのだろうと思う。 失いたくない。 その気持ちはますますはっきりしていた。彼女がここで少しずつ呼吸を整え、土の匂いやひとり分の食卓や、何も急がなくていい朝の中で自分を取り戻しつつある姿を見るたびに、なおさら強くなる。 失いたくない。 もう二度と、あの空っぽの寝室や食堂のままには戻りたくない。 彼女がいないことで王都の屋敷が少しずつずれていく、そのずれに耐えられない。 それは愛なのだと、もう認め始めている。 けれど、その愛を今さらどう差し出す。 謝罪は届かなかった。 変えると言った未来は、彼女の望んだ時間とは違った。 手を伸ばせば今さらだと知る。 では、何をもって彼女を失わずに済むというのだろう。 答えのないまま、ただ胸の内側だけが強く軋んでいく。 ◇ その夜、ヴィルレオは再び眠れなかった。 前夜と同じく、暖炉の残り火が弱く部屋を照らし、風が窓を鳴らし、館の静けさが時間をゆっくり押し進めていく。だが今夜の眠れなさは、愛へ名をつけた夜とはまた少し違っていた。 愛だと認めた。 その感情自体はもう否定しようがない。否定しても無駄だ。彼女が咳をすれば胸が痛み、笑えば安堵し、遠く感じればひどく怖くなる。その動きを、愛以外の言葉へ押し込めることはもうできなかった。 問題は、その愛があまりに遅いということだった。 遅い、というだけではない。 遅い愛は、ときに相手を救わない。 むしろ、傷つけることさえある。 欲しかった時間に与えられなかったものを、後になって差し出されても、人は素直に受け取れない。特にリュゼリアは、もう期待しないことで自分を守るところまで来てしまっている。そこへ「今度こそ」と言うことは、彼女の穏やかな時間へまた不安と期待を持ち込むことにしかならないのではないか。 ヴィルレオは寝台を下り、また窓辺に立った。 夜の庭は暗い。花壇は影とほとんど変わらない。ただ、その暗がりの向こうに彼女の部屋があり、今ごろ浅く眠っているのだろうと思うと、心の奥底がひどくざわついた。 失いたくない。 そう思う。 では、自分は何を失うことを恐れているのか。 彼女の命か。 もちろんそれがいちばん恐ろしい。余命半年という言葉は、まだどこかで現実味を持
今さら整えたところで、何になる。 もちろん、整えなければならない。王都の屋敷はこれからも動く。彼女が不在のままでも、家と領地と社交は止まらない。だからこそ、彼女が一人で担っていた部分を見える形へ起こし、他の者でも回せるように変える必要がある。 だが、その理屈と、胸の内にある後悔とは、まったく別の場所にあった。 王都の屋敷を整えることはできる。 花の高さを正すことも、香草の量を減らすことも、夜番の回し方を変えることも、社交台帳の札を整理し直すこともできる。 でも、それは彼女が欲しかった時間ではない。 食卓で欲しかった言葉。 扉の前で欲しかった足音。 朝に欲しかった視線。 それらは、今さら本邸の仕組みを整えたところで、ひとつも戻らない。 ヴィルレオは報告書を伏せた。 机の端には、昨夜眠れないまま書きつけた彼女の名がまだ残っている。誰にも見せるつもりのない紙だ。粗い筆跡でただ一つだけ書かれた名前。それを見るたび、夜明け前に認めた感情の名がまた胸へ浮かぶ。 愛している。 遅すぎる。 だが本当だ。 そして、その本当さが、今はひどく残酷だった。 ◇ 夕方近く、ようやく熱が少し落ち着いたらしく、リュゼリアは居間へ移された。 窓辺の長椅子に毛布をかけ、背へ枕を当てて半身を起こしている。机の上には開いた本と、少し冷めた茶。頬は白いままだが、熱の赤みは薄れていた。咳のあとが残るのか、呼吸はまだ浅い。それでも寝台に寝かされたままではないことに、ヴィルレオはひどく小さく安堵した。 扉のところで立ち止まると、リュゼリアが顔を上げる。「旦那様」 その呼び方は相変わらず静かだった。親しさも拒絶もなく、ただ必要な分だけこちらを受け入れている声。「具合は」「少し楽になったわ」 嘘ではないのだろう。けれど、苦しくないわけではないことも、彼にはもうわかる。呼吸の浅さ。言葉の終わりに喉を休めるような小さな間。そういうものが、昼よりはましだが、夕方の疲れをきちんと物語っていた。「今日は庭へは」「出ていないわ」「そうか」「残念だったけれど」 そう言って、ごく淡く笑う。「花は逃げないものね」 その笑みに、また胸が痛む。 彼女はここへ来てから、こういうふうに小さなことを小さなことのまま言えるようになった。王都では、残念だとすら言えなかった